もとまち寄席 恋雅亭
公演記録    第479回 もとまち寄席 恋雅亭
     
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 公演日時: 平成30年7月10日(火)      午後6時30分開演
   出演者     演目
  桂   福 丸  「延陽伯」
  桂   よね吉  「皿屋敷」
  桂   春 雨  「粗忽長屋」
  笑福亭 松 枝  「抜け雀」
    中入
  笑福亭 円 笑  「たがや」
  桂   米團治  「子は鎹」(主任)
 
   打ち出し 21時00分 
   三味線  勝 正子。  
   鳴り物  桂 弥っこ。
   お手伝  露の團六、笑福亭遊喬、桂南天、桂 三ノ助、
                  笑福亭縁、笑福亭竹吉、桂よね一。
 今回は、梅雨明けの平成30年7月10日、第479回公演を開催させて頂きました。
6月11日の前売り開始。前売券もほぼ完売し、晴天の暑い火曜日の開催となりました。暑い中、多くのお客様に開場まで並んで頂きました。
 チラシは、明日、11日の新開地喜楽館の杮落しも相まって過去最高の量となりました。いつもより関係者の人数が少ない噺家さんのお手伝いで助かりました。特に、本日の出番の無かった、露の團六、笑福亭遊喬、桂南天、桂三ノ助の師匠連にお手伝い頂き、5時前からスタート。その後も持ち込まれたチラシを手際よくこなしつつ、定刻の五時半に開場となりました。さらに、今回はサンテレビの取材も有り大賑わい。今回の模様は、この公演の翌日の「新開地喜楽館・杮落し公演」と共に8月5日(日)の朝8時半からの「ひょうご発信!」でOAされます。
 いつもながら長らく並んで頂いたお客様が、一番太鼓に迎えられ、思い思いの椅子に着席され、席は次第に埋まっていき定刻の6時半、満席での開演となりました。

 その公演のトップは、地元神戸出身の逸材・桂福丸師。私立灘中学校・高等学校、京都大学法学部卒業後、平成19年に桂福團治師匠に入門し、神戸を中心に各地の落語会や、新開地喜楽館の事務局でも大活躍中です。当日も掛け持ち取材をこなされての楽屋入り。
『石段』の出囃子で高座へ。「第479回のもとまち寄席恋雅亭でございまして・・・。」とのあいさつから、銀座と天王寺の母親の子供への叱り方を例に東西の気質の違いで笑いを誘って、始まった本題は、お馴染みの『延陽伯』の一席。声や表情で奇をてらうことなく実にオーソドックス。聞いていて気持ちが良い。サゲにも一工夫あった持ち時間ちょうどの秀作でありました。

 二つ目は、故桂吉朝一門から当席の常連・桂よね吉師匠。九州工業大学から平成7年に入門し米吉。15年によね吉に改名。ABCやNHKの新人賞を初め、東西若手落語家コンペティション、繁昌亭奨励賞の受賞経歴を持つ期待の星。今回はお弟子さんの桂よね一師を共に連れての楽屋入りとなりました。楽屋での談笑の後、『祇園小唄』の出囃子で高座へ。
 マクラで幽霊になる為の条件を紹介。その理論では、①ベッピンであること。②やせていること。①と②を満足しなければ、化物に分類されるそうです。
 始まった本題は『皿屋敷』。皿屋敷のことを聞きにきた長屋の住人が、伝説の説明をする斬新な演出からスタート。客席の反応を確認して、もう一度繰り返して客席の笑いを誘って、ワイワイガヤガヤとお菊さんを見物に。幽霊の登場に怖がるが、「明日の晩も行こ」。翌日からはお祭り騒ぎでお菊さんも豹変し、大爆笑のうちにサゲ。マクラも入れて20分の高座でありました。
 端正な顔立ちのよね吉師匠、三代目春團治師匠を髣髴とさせる色気のある別嬪で凄みのあるお菊さんではなく、愛嬌一杯のお菊さんでした。

*** 落語ミニ情報 其の壱 『皿屋敷』について ***
 現在上方で演じられている『皿屋敷』は米朝師匠によりますと、二代目桂三木助師匠→橘ノ円都師匠→四代目桂米團治師匠→桂米朝師匠。米朝師匠から三代目桂春團治師匠に口伝され、さらに多くの演者に継承されたそうであります。
 ちなみに、春團治師匠は当席で、『皿屋敷』を、昭和53年5月・第2回、昭和58年6月・第63回、昭和62年9月・第114回、平成7年7月・第203回、と、四度演じておられます。
 この噺の骨組みとなっている「皿屋敷」は、主家の家宝の皿を割って成敗され、井戸に投げ込まれたお菊が幽霊となって夜毎現れて、皿の数を読むという伝説を元に、浄瑠璃「播州皿屋敷」、歌舞伎「新皿屋敷月雨暈(つきのあまがさ)」、さらに岡本綺堂作「番町皿屋敷」などとして演じられています。日本各地に類話がありますが、特に有名なのが、播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)です。

*** 落語ミニ情報 其の弐  『祇園小唄』と『浪花小唄』 ***
 この二曲は、上方のご当地ソングの走りとも言える曲です。
昭和4年に、♪~いとし糸ひく、雨よけ日よけ、かけた情を、知りゃせまい、テナモンヤ、ないかないか、道頓堀よ。の『浪花小唄』が、翌昭和5年に、♪~月はおぼろに東山、霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に、夢もいざよう紅桜、しのぶ思いを振袖(ふりそで)に、祇園恋しや だらりの帯よ。の『祇園小唄』が、共に当時、元芸者歌手のトップを走っておられた、藤本二三吉姉さんが唄われて大ヒットとなりました。『浪花小唄』を桂團朝師匠が、『祇園小唄』を桂よね吉師匠のそれぞれ、出囃子として使われています。
 この後、昭和7年に、♪~はァ~、島で育てば、娘十六、恋心。の、『島の娘』を小唄勝太郎姉さんが、昭和8年に、♪~はァ~、天竜下れば、よ、こりゃ、しぶきもかかるよ。の、『天竜下れば』を市丸姉さんが唄われ大ヒットし、『市勝時代』となります。両姉さんの大ヒット曲といえば、『三味線ブギウギ』、『明日はお立ちか』で、この6曲共、今もカラオケで唄うことが出来ます。あまり唄う人はいませんが。

 三つ目は故三代目桂春團治一門から、「虚弱体質な若旦那」の桂春雨師匠。この師匠も当席常連。芸名にちなんだ『春雨』の出囃子で高座へ登場。
「ありがとうございます。只今のよね吉さんが熱演でございまして、風邪ひいてるのに元気なお菊さんで、私も演(や)るんですが、『皿屋敷』と声が掛かったらどうしようかと思ってまして、体力がございません、三十度超えると夏バテでございまして・・・。今日は二つ考えてきまして(演じる噺)、『首屋』か、もう一つけったいな噺・・・。暑いので無理しない噺を」と断って、始まった本題は『粗忽長屋』。
この噺、舞台を大阪に置き換えて、まめであわてものの男と、のんびりしたあわてものの男が繰り広げる爆笑噺。登場人物も少なく、ストーリーも奇想天外。場面転換もダイナミック、そして、サゲが又、いい噺。しかし、お客様に「そんなアホなぁ」と思わせず、間と目線で笑いを爆発させなければならず、演じ方を間違えるとシーンとしてしまう難しい噺。その難しい噺を、春雨師匠の肩の凝らない見事な好演とキッチリ、ツボ、ツボで大きな笑いがタイミング良く巻き起こる当席の笑い上手なお客様が見事にマッチングした大爆笑の二十分の好演でありました。
*** 落語ミニ情報 其の三 『粗忽長屋』について ***
演題の『粗忽』と言う言葉、辞書で調べると、「軽はずみなこと。そそっかしいこと。また、そのさま。」とありますが、現代、東京でもあまり使われていません。
 この噺を十八番にされておられた、昭和の名人と言われた五代目柳家小さん師匠は、「粗忽ものは健忘症。健忘症、健やかに忘れる病気!」とのフレーズでした。
 上方でも、あまり馴染みがありませんし、辞書ではおっちょこちょいと、紹介されています。上方落語に登場する「いらち」とはちょっと違い、こっちは、「いつもせわしのーて、ほんまにいらちな人やなー」と表現され、いつもせかせかして、落ち着きのない人との意味合いでしょう。
 粗忽という言葉、東京でも死語となりつつあるらしく、当代の桂文楽師匠は、寄席のマクラで、「若い女の子に粗忽て知ってると聞くと、『知ってるわ、肩の骨』と、鎖骨と間違ってる」と笑いをとっておられます。
 原話は江戸時代からあります。上方には滅んでしまいましたが、同趣向の『いらち長屋』と言う噺があったそうです。ルーツは、明治の名人・三代目柳家小さん師匠は、上方の四代目桂文吾師匠からの『らくだ』を始め多くの上方落語を東京に移植されておられますので、この噺も上方からの移植版。永代橋の落橋事故の実話を元にした『永代橋』と言う、現代ではあまり演じ手がいない同趣向の噺がありますが、この噺からか、東西で同時に出来上がった噺か小生の薄学では不明です。
 この噺は歴代柳家小さん師匠の十八番で、五代目小さん師匠はこの噺を四代目小さん師匠から口伝された時に、四代目師匠から「師匠(三代目柳家小さん)から習った噺でこの噺が一番難しい。」と言われたとの芸談が残っています。

 中トリは、上方落語界の大御所・笑福亭一門の笑福亭松枝師匠にお願い致しました。当席常連として数多くご出演頂いており、お弟子さんの縁(ゆかり)、竹吉の二名のお弟子さんを引き連れ、いつもの様に笑顔一杯で楽屋入り。師匠に、「今日の演題は?」とお伺いすると、最近、お亡くなりになられた歌丸師匠の十八番か、『鹿政談』か『抜け雀』か、前のネタの出方と今日のお客様で、上がってマクラ振りながら決めるとのことでした。
 期待一杯の中、『早船』の出囃子で高座へ登場。「えー、桂歌丸師匠がお亡くなりになられまして、・・・。私はその寿命を二年縮めた関西の同業者を知っております。桂米團治・・・。上方では、故人となられると言う暗いニュースが続いております。月亭可朝先輩、露の慎吾先輩、桂福車君、笑福亭仁勇君、四年前には、人間国宝の桂米朝師匠、その次の年には三代目春團治師匠が、暗いニュースでした。ところが、次の年には四代目桂春團治が決定するという・・・。暗いニュースでした(客席大爆笑)。」
 そして、「明治の噺にお付き合い願います。」と始まった本題は、『抜け雀』がスタート。
 その噺、舞台は小田原ではなく、大津の宿におき、一文無しの名人の絵師が宿賃にと、描いた雀が絵から抜けだし、豪商・鴻池善右衛門が千両の値が付ける。さらに、その父親が鳥かごを描く。これにさらに千両上積みの二千両の値が付く。登場人物が大阪弁なのも、ご愛嬌で、何事にも動じない絵師、宿屋の夫婦の会話、親子の情でホロリさせ、余韻を残すサゲと松枝師匠も含め善人しか出てこない、聞いていても気持ちが良く、水墨画のような半時間の秀作でありました。

*** 落語ミニ情報 其の四 『抜け雀』のサゲについて ***
 この噺は、東京の昭和の大名人、古今亭志ん生、志ん朝師匠で良く聞いていましたので、桂米朝師匠の口演を聴くまでは、東京の噺だと思っていましたし、サゲも「親を駕籠かきにした」しか知りませんでした。このサゲを言うために、マクラで「駕籠かきというのは最下級の職業で」、「駕籠かき」=「雲助」=「悪者」と、駕籠かきはしょうがないものと説明しているのだと思っていました。米朝師匠は、「現在親に駕籠をかかせた」とサゲておられます。このサゲは義太夫の『双蝶々曲輪日記』橋本の段の文句に「現在親に駕籠かかせ」を踏まえていると小佐田先生の本に解説されています。この噺を米朝師匠は四代目桂文枝師匠から口伝された通り演じられておられましたので、上方でも古くから演じられていた噺ではないでしょうか。駕籠かき自体や浄瑠璃の文句が判らなくなった現代では事前に説明しないと判らないサゲです。

 中入り後は、六代目笑福亭松鶴一門の笑福亭円笑師匠に久々、ご登場頂きました。「長いこと出てへんで。次は早く出してくれんと、死んでまうで。」と楽屋で語られ、夏向きの涼しげな淡い色の紋付袴で『駕籠屋』の出囃子で高座へ登場。「入れ替わり立ち代り色んな者が出てまいりますが、私は別にお寺さんではありません。・・・もう直ぐ八十になる上方落語界の万年青年・」と自己紹介。鉄板のツカミの「認知症防止には、夜、寝る前に廊下に気をつけ、そして帽子を被る。老化防止!」と、大いに笑いを取って、ほめ言葉として歌舞伎、新国劇、新劇、噺家、と紹介して、始まった本題は、東京落語の夏の噺の逸品『たがや』。
マクラから絶好調は本題になってさらに、ギアチェンジでUPのフルスピード。何を言っても受けまくり、そして、サゲ前の客席を巻き込んだ「阪神応援コール」からサゲになり、『三下り鞨鼓』の出囃子で、袴をスカートのようになびかせて下りられた元気な万年青年・円笑師匠の熱演でありました。
 7月公演のトリは、今回、上方落語協会副会長、米朝事務所社長の重責につかれた桂米團治師匠にお願い致しました。いつも通り早から楽屋入りされ、談笑。そして、本日一番の拍手に迎えられ高座へ。「最後は御曹司でお付き合い願います。出る人出る人、嬉しいことに私をネタに・・・」と、歌丸師匠に死期を早めた男?として、繁昌亭の杮落とし公演での実話を二つ紹介。口上で三遊亭歌丸と紹介。歌丸師匠が「桂」だよと言うと「鬘でしたか」。歌丸師匠が「地毛だ!」と返すやりとりと、先に下りて、楽屋へ帰ってきて、疲れたから「マッサージに行く」と置いてあった歌丸師匠のジャケットを間違って着て外出。そのポケットには帰りの新幹線のチケットが・・・。大いに笑いを誘って、米朝夫婦の秘話から「夫婦の子は鎹」と始まった本題は、『子は鎹』の一席。
 この上方ではちょっと珍しい人情噺で、離婚した男が子どもとの偶然の再会をきっかけに妻とよりを戻す、夫婦と親子の情感が見事に描き出された涙あり、笑いあり、感動の拍手ありで、高座姿も絵の様。浪花の人情家・桂ざこば師匠の十八番に匹敵する今回の米團治師匠の素晴らしい出来の半時間の秀作で七月公演はお開きとなりました。
指摘をされ、始めて気が付いたのですが、珍しく最初から最後まで、誰一人として見台を使わなかった公演でもありました。

*** 落語ミニ情報 其の五  落語『子は鎹』について
 この噺は大きく二つの型があります。子供と別れて出て行くのが父親か母親の二つです。この噺は、『子別れ』として明治時代に創作されたらしく、上・中・下に分けて演じられることが多く、その下が『子は鎹(かすがい)』として、東京では、故人となられた圓生、志ん生、馬生、小さん、志ん朝、圓楽、談志などの師匠連が演じられておられた、今も多くの演者がおられる人情噺の大物で、噺家になった限り、『文七元結』、『鰍沢』、などと並んで演じてみたい噺となっています。
が演じられたのは東京の男が出て行く型であることを付け加えておきます。
 一方、明治時代の落語の租、三遊亭圓朝師匠が、「男の子は父親につく」から、母親が子供と別れる『女の子別れ』と改作されたものがありますが、余り演じられていません。上方へは、二代目三遊亭円馬師匠が移植されたことで、六代目笑福亭松鶴、笑福亭松之助の両師匠はこの型で演じられていました。