もとまち寄席 恋雅亭
公演記録    第469回 もとまち寄席 恋雅亭  
◆春駒HOME◆恋雅亭TOP◆公演記録目次
 公演日時: 平成29年9月10日(日)      午後6時30分開演
   出演者     演目
  桂   治 門  「つる」
  桂   あさ吉  「味噌豆」
  桂   文 三  「嬶(かか)違い」
  桂   梅團治  「佐々木裁き」
    中入
  桂   三 象  「真心おじんタクシー」
  笑福亭 呂 鶴  「崇徳院」(主任)


   打ち出し 21時05分 
   三味線  入谷和女、勝 正子。  
   鳴り物  桂 紋四郎。
   お手伝  桂 三ノ助、笑福亭呂翔。
 今回は、平成二十九年九月の第469回公演を開催させて頂きました。
八月十一日の前売り開始後、前売り券も着実に売れ、秋晴れの日曜日を迎えました。
お客様の出足はいつも通りで、休日の元ブラを楽しまれている通行人の注目を受けながら列は長くなっていきました。
 チラシの数も先席並みに多く、多くの方に応援を頂き、手際良くこなし、定刻の五時半に開場となりました。
 いつもながら並んで頂いたお客様が、一番太鼓に迎えられ、「過度な席取り厳禁、館内禁煙」の注意事項にうなずかれながら思い思いの椅子に着席。その後もお客様の出足は途切れず、着到(二番太鼓)がなる頃には、後方に若干の空席が残りましたが、ほぼ満席となりました。

 その公演のトップは、桂小春團治師匠の総領弟子の桂治門師。平成二十年に入門。当席へは、お手伝いで数多く来席。キャリア九年で嬉しい初出演となり、早くから楽屋入りされ、楽屋整理やチラシの挟み込みをこなして、高座着に着替えられ、二挺の三味線の『石段』の出囃子に乗って元気一杯高座へ登場。マクラもそこそこに始まった演題は、前座噺の定番、『つる』の一席。
 この噺、元々、上方落語の前座がまず習う、「旅ネタ」と並ぶ「根問物(色事根問・商売根問・浮世根問)」の内の『絵根問』という噺の最後の部分を四代目桂米團治師匠がまとめたとされています。その噺を基本に忠実に演じられ、客席からの大爆笑を誘った十五分の好演でありました。
この噺、当席では意外と演じられていません。治門師からは「ネタ帳をめくって、あれ、出てへん」と思われ口演となったとお伺い致しました。前回に演じられたのは、平成23年12月の『四百回記念公演』。
『道潅』桂阿か枝、『湯屋番』林家染二、『天狗裁き』桂春駒(故人)、『持参金』笑福亭松喬(故人)、中入、『つる』桂塩鯛、『赤とんぼ』桂三枝(現:文枝)の師匠連でありました。

 二つ目は、故桂吉朝一門の筆頭弟子で、キャリア二十四年の桂あさ吉師匠。この師匠も勉強熱心でキャリアも二十四年。今回も落語会の掛け持ちをこなされ楽屋入り。
十月二十二日、天満天神繁昌亭での「桂あさ吉の会」では、師匠(桂吉朝)も演じられた『弱法師(よろぼし)』で、「芸術祭」に参加され、充実の毎日。着物を着替えられ、準備万全???
『お江戸日本橋』の出囃子で高座へ登場。挨拶の後、羽織を脱ぐ。ここで、上方落語界きっての沈着冷静な、あさ吉師匠が帯を締め忘れる大ハプニング発生。
これを、治門師と連携して、急遽、「角帯の結び方講座」を高座で披露。客席からは、やんやの大喝采が巻き起こる。やや動揺しながらのマクラは、英語落語を披露した時の受け方の凄さと、文枝一門のカナダ人の噺家・桂三輝(サンシャイン)師の実話。急遽、持ち時間と客席の雰囲気を考慮され当初予定の演題(ネタ)を『あくびのけいこ』から当席では珍しい『味噌豆』に変更してスタート。
可愛い丁稚さん・軽い旦那さんとあさ吉師匠がオーバーラップし、客席は大爆笑。一工夫されたしゃれたサゲも決まって、いつもの端正な高座ではない、違う一面のあさ吉師匠でありました。
この噺も長らく演じられていませんでした。前回演じられたのは、先代・森乃福郎師匠で、今から39年前の第5回公演でした。ちなみにあさ吉師匠はこの噺を東京の林家三平師匠に習ったそうです。ここでの味噌豆は、味噌に使う豆、大豆を煮たもので、普通の煮豆のことです。

 三つ目は、故五代目桂文枝一門のから桂文三師匠。十八番弟子(直系二十名)ですが、キャリア二十六年。八年前に当席でもお披露目をしましたが、上方落語・文枝一門の名跡の文三の五代目を襲名され、ノリノリ、元気一杯で、いつも、明るい高座は当席でも多くのファンがいらっしゃる師匠です。
『助六上り』に乗って、満面笑みで高座へ登場。さっそく、あさ吉師匠の帯の件で笑いを誘う。
五代目文枝師匠との当席の想い出や、「鳩がなんか落として行ったで。フーン」のネタを付けてもらって、「最初は真似から」との師匠の教えを守って、師匠の口調で語ると「真似すな」。
爆笑マクラから始まった演題は、大好きで憧れの五代目文枝師匠直伝の『嬶(かか)違い』の一席。この噺も当席では珍しく過去に一度しか演じられていません。
 お互いの顔も見ないで結婚する現代の常識から考えるとそんなアホなと思われる噺、だから、こんな間違いもとの筋立て。実に単純なのですが、単純なだけでお客様に次の展開が読め、先に笑いが起こりがちです。それをグッと引っ張って、タメを作って、ドッと笑いを誘うかが演者の腕の見せ処。その単純なようで実は技量がいる噺を見事に大爆笑の連続で演じられ、サゲでも大爆笑を取られ下りて来られ、「ええ、お客さんや。お客さんに助けられて気持ち良く演じられました。」との感想の文三師匠でありました。元気一杯、次の仕事先の名古屋へ向かって出発されました。
 演題にもなっている嬶(かか)とは、幼児語で、父(とと)、母(かか)と、庶民の間で自分の妻を親しみを込めて呼んだ愛称。かかあとも言う。NHKの朝ドラの『ととねえちゃん』でも有名になりました。

 中トリは、故桂春團治一門から桂梅團治師匠。
前名の春秋から当席でのお披露目を開催したのは二十年前。梅團治師匠を真ん中に、桂春團治、笑福亭松之助、月亭八方、桂春駒の師匠連が並んでの記念口上が昨日のようです。
明るい芸風で当席の顔付けにはなくてはならない逸材として今回も中トリを努めて頂きます。
『龍神』の出囃子で登場され、入門当初、落語を演じる場所は無かったが、桂春秋、またの名をミスター・ビンゴと呼ばれ、今より収入が多かったとの逸話をマクラに始まった演題は『佐々木裁き』の一席。
今も昔も、役人(公務員)への悪口には、不正に公金の着服や、収賄や横領、資金をポケットに、タダ酒、タダ飯。自分の保身と天下り先の事しか考えない。弱い者いじめと甘い汁を吸う事。
汚職事件を「お食事券」の聞き間違え、など。
その風潮に立ち上がった佐々木信濃守と、こましゃくれた桶屋の高田屋綱五郎の倅の四郎吉は描き方ひとつで笑いを誘わないのだが、子供の描写へ上方落語界一と言っても言い過ぎではない師匠。キャラクターが見事に一体化され大爆笑の連続で噺は進みサゲ、中トリに相応しい半時間の秀作高座でありました。

*****  佐々木裁きについて   *****
・サゲ近くに登場する天保銭は楕円形をした大型の穴あき銅銭で、裏面に「當(当)百」と刻印されているところから「とうひゃく」と呼ばれ、今の価値に換算すると千円程度だそうです。
・この噺、江戸時代幕末に上方の三代目笑福亭松鶴師匠の創作落語で、東西で活躍された三代目三遊亭円馬師匠が大正初期に東京に移植したとされています。
・佐々木信濃守は実在の人物で、落語では、上方は西町奉行、江戸は南町奉行ですが、記録では嘉永五年・1852年・大坂東町奉行、文久三年・1863年・江戸南町奉行となっています。

 中入り後は、桂三象師匠が『芸者ワルツ』の出囃子で、お茶碗を持ってノリノリで登場。つかみはいつもの「私は桂文枝(六代)の弟子で、こう見えましても今年で、・・・(一拍あって)六十一です。郷ひろみと同期です。最近、高座が落ち着いてきたとよく言われます。が、そうではありません。(白湯を飲みながら)ただ単に体に水分がなくなり、パサパサのガサガサ、焼き場へ行ったらすぐ燃えます。舞台では燃えません。乾燥肌ですが、芸風は湿っぽい。」と、ホンワカムード一杯の「桂三象の世界」に客席は大爆笑とクスクスの連続。
マクラで笑いをタップリとって、「高齢化時代で・・・」と、始まった演題は師匠直伝の創作落語の『真心サービスおじんタクシー』。
その噺を土台は崩さず、三象師匠の工夫を随所にプラスアルファーし、憎めないキャラクターで演じられた二十分の秀作でありました。
この噺、六代文枝師匠の創作落語で当席では、三十年前の昭和62年の4月10日の今では実現不可能な客席に畳を引いての昼夜公演、伝説の『開席・十周年記念公演・夜の部』の中トリで演じられました。
『昼の部』・『時うどん』笑福亭鶴志/『江戸荒物』桂文太/『くやみ』笑福亭松葉(故・七代目松鶴)/『宗教ウオーズ』笑福亭福笑/『猿後家』桂小文枝(故・五代目文枝)/中入/『自分に逢った男 』笑福亭仁智/『替り目』桂春蝶(故・先代)/『いかけ屋』桂春団治(故人)。
『夜の部』・『竜田川』林家市染(故・四代目染語楼)/『ちしゃ医者』桂春駒(故人)/『貧乏花見』桂歌之助(故・先代)/『大相撲インニューヨーク』桂文珍/『真心サービスおじんタクシー』桂三枝(現・六代文枝)/中入/『秘伝書』月亭八方/『豊竹屋』林家染二(四代目染丸)/『死神』笑福亭仁鶴。(敬称:略)

 八月公演のトリは、上方落語の重鎮の笑福亭呂鶴師匠にお願い致しました。
昭和四十四年に、故六代目笑福亭松鶴師匠に入門され、キャリア四十八年。いつまでも入門当初からの「呂やん」がピッタリな若々しくやさしい師匠ですが、落語や礼儀に関しては厳しい師匠で、今回は、今年入門された笑福亭呂翔(ろしょう)師をお供に楽屋入りされました。
『小鍛冶』の出囃子で登場され、「えー、ある先生に『人間の一ケ所での限界時間は一時間半』と、お伺いしました。私が上がりました時間が開演から二時間経っておりまして、本来であれば今の三象さんのご陽気なお笑いでお開きとすれば良いのですが、当席は地下でございまして、お客様が一度に階段へ行かれますと危のうございます。・・・私がしゃべっている間に一人帰り、二人帰りと、お客様の身の安全のために出てきたような訳でございまして・・・。」とのマクラから始まった本題は
『崇徳院』の一席。主人公の熊さんを始め、恋患いの若旦那、息子の全快のために無理難題を言う親旦那、そして、しっかりものの女房が師匠の舌の上で大活躍。ノリノリの高座に客席もノリノリ。発端からサゲまで全編大爆笑の半時間強の好演でお開きとなりました九月公演でありました。

この『崇徳院』は、小倉百人一首77番の崇徳院の和歌の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ。(意味は傾斜のために速くなり、岩に当たって二手に分かれている川の流れが、やがてひとつに合流するように、今別れ別れになっているあなたとも、またいつか逢いたいと思っています)」を題材にした町人の恋模様を描いた滑稽噺で、初代桂文治師匠の作といわれ、後世に改作を繰り返し現在の形になったとされています。

文治という名前は、元々、上方の名前で桂派の源流とされ、諸説あるそうですが、三、四代目が東西に存在しています。上方では、四代目文治の弟子の初代文枝が五代目を継がず消滅。
初代文枝の孫弟子の二代目文團治が七代目を一代限りを条件に上方で襲名。
七代目文治は初代米團治、二代目文團治ですし、初代春團治は門弟に当たりますので、上方桂派は初代文治が源流といえます。
一方、東京では、五、六代、が存在し、八代目は「根岸の文治」、九代目は「留さん文治」、十代目は桂伸治でTV大活躍された。現在は十一代目です。

崇徳院は、崇徳天皇、後の崇徳上皇のことで、権力を取り戻そうと起したのが『保元の乱』。
崇徳上皇側に、藤原頼長(よりなが)、源為義、平忠正が、後白河天皇側に藤原忠通、源義朝、平清盛が組し戦となり後白河天皇側の勝利となります。この戦で崇徳院は讃岐へ罪人として配流となり亡くなり、それ以後、日本三大怨霊として、平将門、菅原道真、と共に恐れられることになります。
その後、後白河天皇(上皇)派の武士の平清盛と源義朝が戦うのが『平治の乱』。その後、『源平の合戦』と繋がります。  (いづれも敬称:略)