もとまち寄席 恋雅亭
公演記録    第452回 もとまち寄席 恋雅亭・三代目桂 春團治追善公演  
◆春駒HOME◆恋雅亭TOP◆公演記録目次
 公演日時: 平成28年4月10日(日)      午後6時30分開演
   出演者     演目
  桂   福 丸  「しの字丁稚」
  桂   福 矢  「子ほめ」
  桂   文 三  「転失気」
     米團治  「親子茶屋」
    中入
  桂   春 蝶  「野崎詣り」
  桂   福團治  「月並丁稚&有馬小便」(主任)

   打出し  21時10分
   お囃子  林家和女、勝 正子。 桂 紋四郎。
   手伝い  桂 三ノ助、桂 團治郎。
 当席も2月の開席450回記念公演を開催させて頂き、ひとつの区切りを通過致しました。
今回は第452回公演として、『三代目桂春團治追善公演』を開催させて頂きました。
3月11日の前売り開始後、順調な売れ行きで1週間で完売。その後も電話の問い合わせが途切れない中、当日を迎えました。追善公演と日曜日が相まってお客様の出足はいつも以上で、長い列が出来き、当日券も予定枚数をオーバー。いつもながら長時間、並んで頂いたお客様には申し訳ないことです。
 今回も多く届いたチラシを開場準備に間に合わそうと一丸となって人海戦術で手際良くこなし、定刻の五時半に予定通り開場となり、次々とご来場されるお客様で客席は見る間に埋まり、着到(二番太鼓)がなる頃には、立ち見も出る大入満席となりました。

 公演のトップは、春團治師匠の孫弟子に当たる、福團治一門の桂福丸師。
地元神戸出身で、灘中、灘高、京大を卒業され、平成十九年入門で当席へは初登場となります。
師匠の教育、躾と聡明な頭脳、生真面目な性格が相まっての真摯に落語に取り組む姿勢は、各地の落語会でも実証済み。早くから楽屋入りされ準備も万全で、チラシの挟み込みもお手伝いして頂く。
 定刻の六時半、和女・正子嬢の三味線『石段』の出囃子に乗って、満席の客席の拍手に迎えられてトップバッターとして高座へ登場。
「えー、ありがとうございます。ただ今より開演でございまして・・・」との挨拶から、さっそく始まった本題は、春團治師匠縁の演題ではなく、上方では演じ手も少なく、当席でも初演題となります、『しの字丁稚(しの字嫌い)』の一席。
発端からサゲまで、ややもすると嫌味になりがちな噺をそつなくキッチリと演じられる。「公演の成否は前座の出来が大きな要素」とされていますが、大成功を予想させる大出来の十五分でありました。
この噺、四=死に繋がると毛嫌いする主人と丁稚の定吉が何とか、「し」を言わそう、言うまいと大活躍し大爆笑を誘う噺。上方では珍しくなってしまいましたが、元々は上方噺でした。
原話は、江戸中期に出版された笑話本『絵本軽口福笑ひ』にある無題の小咄とされています。

 二つ目は、平成九年入門の桂福矢師匠。『楽隊』の出囃子で登場し、いつもながらの、独特の力の入らない、癒し系、どことなく江戸の小粋も感じさせる個性の師匠のマクラがスタート。
春團治師匠の家に訪問中に自転車を取られる。すると、師匠が「僕のやるわ」。又、取られると今度は「あーちゃん(奥様)のやるわ」。さらにも一度取られると、「君、これで三台目(三代目)やで」。
爆笑マクラ連発から始まった本題は、師匠直伝の『子ほめ』の一席。発端の「ただ」と「なだ」の聞き違いからさげまで、基本は三代目師匠に忠実に、それでいて自分流に演出されている秀作は、二十分。大爆笑の内にお後と交代となりました。
この噺は、代表的な古典落語で、有名な安楽庵策伝著の『醒睡笑』・の第一巻に登場します。
元々は上方落語で、明治時代に三代目三遊亭圓馬師匠によって東京に持ち込まれたそうです。
ここで登場する二つの言葉を解説。
灘の酒=灘五郷:現在は西宮郷・今津郷(以上西宮市)・東郷・中郷(以上東灘区)・西郷(灘区)の五郷をいいます。
厄=厄年は、陰陽道で、災難に遭うことが多いので気をつけるべきだといわれる年で、男は数え年の二五・四二・六〇歳。女は一九・三三歳という。
この噺での「どう見ても厄そこそこ」とは四十二歳のこと。
六十は還暦。「これから音頭」という唄に「♪~喜寿も米寿も白寿も超えて。人生、まだまだ、これからだ。」言う歌詞がありますが、この噺が出来たころと比べ、現代の皆様、若い、若い。

 三つ目は、桂文三師匠。襲名直後は痩せておられたが、元のふっくらされた体型に。満面の笑みで『助六囃子』の出囃子に乗って高座へ登場。
そのニコちゃんスマイルに客席から笑いが起こり、ほんわかムード満載。
マクラは、春團治師匠に、自身の襲名でお世話になった話題。師匠に当たる先代文枝師匠と春團治師匠は昭和五年生まれの同い年で特に仲が良かった。文三襲名前に先代文枝師匠が亡くなっておられたので、異例中の異例として、ナンバグランド花月での襲名披露公演に、ライバル松竹の大看板の春團治師匠に出演頂いたエピソードから、神戸の東西落語名人選の楽屋で同席させて頂いた時の緊張感の話題。
そして、「(苦笑しながら)師匠の関係の有るネタではなく、全く関係のない噺で・・・。(この一言でも客席大爆笑。ホンワカ文三師匠全開)」と、断って始まった本題は、『転失気』の一席。
お医者さんが尋ねた『転失気』を知らないと言いたくない和尚さんと近所の住人。みんなが知らないことに気が付いた小僧の珍念が和尚さんに一泡吹かせようと考えた秘策は? 客席から大爆笑が巻き起こった、二十分の秀作でありました。
ここで登場する、傷寒論(しょうかんろん)とは、中国の医学書で後漢・晋の時代、紀元二百年時代に完成した医家の聖典であります。この頃の日本はまだ、文字も無く、卑弥呼が大活躍した時代です。

 中トリは、米朝一門から桂米團治師匠の登場となりました。
早くから楽屋入りされ、米朝師匠から譲られた『三下り鞨鼓』の出囃子に乗って高座へ顔を見せると客席から万雷の拍手が巻き起こる。
「えー、三代目師匠と私は父親が噺家と同じ境遇でしたので、特に可愛がって頂きました。なんと言っても、四天王と四天王の息子ですから、後で出る春蝶とは格が違います・・・。」
これに対して袖から春蝶師匠が顔を覗かせ、大爆笑を誘う。
マクラは、襲名前の同じ出番の落語会での出来事。緊張のあまり「この度、ありがたくも小米朝改め、米團治をと言わなければならないのに、春團治を襲名させれ頂くことに・・・。」と、トチリ楽屋の春團治師匠から「僕は何になるんだ。」と、突っ込まれた話題。襲名の挨拶にお伺いした時のシクジリ。師匠にお稽古を付けてもらう日を忘れて、あやまって翌日の約束をさらにとちった実話で笑いを誘そう。その都度、春團治師匠は、「君のお父さんにはお世話になっているから(ものまね)。」と、許してもらったマクラから、大旦那、若旦那のいづれ劣らぬ道楽親子が大活躍する『親子茶屋』の一席がスタート。
この噺は、春團治師匠の十八番中の十八番とされ、登場人物が踊る様子を座ったまま表現するための技量と体力と共に、ムダな言葉がなく演劇的な立体感のある世界を創造させる口演は皆様方もご存知の処です。
その噺を発端からサゲまで、要所にご自身の工夫を入れ演じられ、最大の見せ場の「狐つり」の遊びのクダリでは、客席から大きな拍手が起こった、マクラ共で半時間超の大熱演でお仲入りとなりました。
『親子茶屋』は「お茶屋」が舞台となる「茶屋噺」のひとつで、原話は、江戸時代の笑話本『友達ばなし』に掲載されています。東京では、上方とも関係が深かった八代目桂文治(通称根岸の文治)師匠が、『夜桜』として演じられておられたが、現在では珍しい噺となっています。
上方でのこの噺の口伝は、四代目桂米團治⇒三代目桂米朝⇒三代目桂春團治と伝わり、当代の米團治師匠には米朝師匠から伝わりました。

 お仲入り後、祈と共に後半戦がスタートし、桂春蝶師匠が、『新鍛冶屋』の出囃子で登場すると、待ちかねたように客席から拍手が巻き起こる。
マクラは、三代目師匠のあーちゃん(奥様)の告白。師匠の女遊びのボヤキと本音の話題。「内のお父ちゃんなぁ、多い時で彼女が**人」、「しょせん、噺家は『下衆の極み』」、その時、TVから流れてきたタイムリーな臨時ニュースに、一言「なぁ」。
大いに笑いを取った後、始まった本題は、これも三代目桂春団治師匠の十八番の『野崎詣り』の一席。
発端からサゲまで、師匠直伝を随所に匂わせ、自身の工夫もタップリ入った熱演は二十五分。
大爆笑の連続でした。
サゲは、「下向いて何してるねん」「へい、落ちた小粒を探してます」ですが、これは「山椒は小粒でもヒリヒリ辛い」と、昔のお金の豆板銀の「小粒」を掛けたもので、豆板銀のお金が判らなくなっているので難解と言えます。
 この噺の舞台の野崎観音は、大阪府大東市野崎の曹洞宗慈眼寺の通称で、ご本尊は十一面観世音。神戸からはJR東西線の野崎駅下車。そこで五月の一日から十日まで開催される無縁仏回向の法会に参詣することが野崎詣りです。
 昔は、寝屋川を舟に乗っている人と、堤を歩く人とが互いに悪口を言い合う奇習はあったようで、又、境内にはお染・久松の塚があります。「片町も過ぎ徳庵堤にかかるますと主従無礼講」の部分の徳庵の読みは、「とくあん」であるが「とっくぁん」と聞こえる。
 お亡くなりになられた春駒師匠からは、「うちの親父さんは、船が堤を出て行く処の太鼓の入れ方は、もやってある時(岸に着いている時)は、まだ出てないから(船が)軽く小さく、船が出て行く時は岸を離れるから大きく。お客様の頭の中に思い浮かばせるように打つねんで」と教わったとお聞きしました。
この噺を三代目師匠は、当席では三十五周年記念公演で演じられておられます。
『野崎』の出囃子が流れ、メクリが「春團治」と変わると客席の雰囲気は最高潮。
ユックリと高座へ姿を見せ一礼。客席からは大きな拍手と共に、「待ってました!」「三代目!」「タップリ!」と、いたる処から声が掛かる。
 「えー、大勢のお越しでございましてありがたく厚くお礼を申し上げましてございます。
この恋雅亭も本日、三十五周年を迎えることとなりました。これもひとえに凬月堂様、関係者、そして、ご贔屓頂きますお客様のお陰で心よりお礼を申し上げましてございます。なにとぞ、この会が末永く続きますよう、私のほうからもお願い申し上げましてございます。私で仲入り、休憩でございます。トリの染丸師匠がご機嫌を伺うことになっておりますので、それをお楽しみに、私のところはごく馬鹿馬鹿しいお噂を・・・。関西には有名なお参りが三つございまして・・・。」から始まったいつもながらの秀作でありました。

 「追善公演」のトリは、三代目春團治師匠の筆頭弟子の四代目桂福團治師匠に御願い致しました。
トップから続いた盛り上がりがそのままに客席は期待感一杯。『梅は咲いたか』の出囃子で登場されると、大きな拍手と共に、「待ってました! 四代目! タップリ」と、御贔屓から声も掛かる。
いつも通りの脱力感ツカミからに、「三尺下がって師の影を踏まず。師匠が白や言いはったら、白。キッチリした師匠でした。」と、マクラが始まり、沢庵の切り方までキッチリしていた。羽織の脱ぎ方は絶品でした。と、想い出を語って、「今日は、まだ、私が入門直後に学生服を着て教わった噺、丁稚の噺を五十年ぶりに演(や)ろうと思ってますけど、よろしいか?」と、断って、客席の了解の拍手で、三代目十八番の『月並丁稚』がスタート。
まず、サゲの伏線を丁寧に説明され、描写も緻密に演じられる師匠。三代目師匠の完成度の高い十八番を見事に福團治色満載に仕立てられておられ、狙い済ましたように客席から爆笑が巻き起こる。サゲも、師匠と同じく、「当月二十八日には月夜に釜抜く」……? 「これッ、当月二十八日は闇も闇も、まことの闇じゃ。」「あッ、ほな、うちの旦さんの言ぅたんは『鉄砲』か知らん。」でした。
当日、福團治師匠にお伺いしました。「戦後すぐは、師匠は、『闇は嫌いです。』と、演(や)ってはった。闇市がまだ、あった頃でなぁ。」と、教えて頂いた。
小生のライブラリーには、このサゲには無かったので、相当古い演出ではないでしょうか。
客席からの拍手を静止して、「これだけやったら、あまりにも短いので、この噺も師匠が演(や)ってはりました、艶笑噺の『有馬小便』を筋だけ・・・。」
と、客席の拍手に促されて、「師匠が演じはると、こんな噺も実に綺麗でして・・・。」とスタート。
内容はまことに面白く当席でも過去に演じられた噺を「筋だけ」と言われておられたが、発端からサゲまでキッチリと演じられ、「追善公演」はお開きとなりました。
この『有馬小便』は、上方落語の祖と言われている米沢彦八師匠が元禄時代に出版された本の『有馬の身すぎ』が、原話とされています。