もとまち寄席 恋雅亭
公演記録    第442回 
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 公演日時: 平成27年6月10日(水)      午後6時30分開演
   出演者     演目
  林家   染 左  「ろくろ首」
  桂    米 紫  「堺飛脚」
  笑福亭  仁 勇  「茶の湯」
      小 枝  「次の御用日」
    中入
  桂    あやめ  「妙齢女子の微妙なところ」
  桂    千 朝  「鴻池の犬」(主任)

   打出し  21時00分
   お囃子  林家 和女、勝 正子
   お手伝  桂 三ノ助、長谷川(文都一門)。
 平成二十七年も六回目の公演。過去の大入満席公演を受けて、メッキリ暑く、ムシムシしてきた感のある六月十日の水曜日。前売り券も若干枚残して当日を迎えました。
水曜日で、お客様の出足はちょっと心配しましたが、その心配をよそに絶好調。
今回もチラシは絶好調。「過去最高の枚数やなぁ」と、いう暇もなく、開場準備に間に合わそうと一丸となって人海戦術で手際良くこなし、定刻の五時半に開場。
早くから並ばれたお客様から次々とパンフレットに挟み込まれた一杯のチラシを持って景気の良い一番太鼓に迎えられてご入場され、思い思いの席を確保されました。
長時間持って頂いたお客様にはいつもながら本当に申し訳ないことであります。
その後も次々ご来場のお客様で席は次々と埋まっていき、着到(二番太鼓)がなる頃には、キッチリ一杯の大入満席の状態となりました。

 六月公演のトップは、林家染丸一門から林家染左師。長身で元気一杯、師匠の教えを忠実に守った高座は各地の落語会でも定評があるキャリアも実力も充分なトップバッターです。いつもながら勿体ない当席の出番組。
和女、正子の二挺の三味線での『石段』の出囃子に乗って満席の客席の拍手に迎えられてトップバッターの林家染左師が高座へ登場。「えー、本来であればここに、林家染太が登場するはずでございましたが・・・」と、出演者の違いを説明。実は事務局の思い違いで大変な間違いを起こしてしまった件を逆手にとって笑いを誘う。
マクラもそこそこに始まった本題は『ろくろ首』の一席。
この噺、前座噺のような軽い噺のようですが、実は登場人物、場面転換も多い、さらに滑稽噺でもあり、首が伸びる怪談噺でもあり、お嬢さん思いの人情噺でもある難しい噺といえます。発端からサゲまでハショルことなく、暗くならず明るく、場面転換もメリハリも利いていて、キッチリ演じられた口演は十三分。前座での登場はもったいない染左師でありました。
成立は幕末頃の上方噺で、三代目柳家小さん師匠によって東京へ移され代々の小さん十八番となっている噺です。

 二つ目は、塩鯛一門の総領弟子・桂米紫師。いつも同様、笑顔いっぱいで高座へ『猫じゃ』の出囃子で登場し、「えー、私も若手と思っていましたが古くなりました・・・。当席は事前にネタ(演題)を出しておりません。その場の真剣勝負でございまして・・・。」
さらに、ある落語会に是非来て欲しいと言われて熱演後の主催者の一言にガクッとなったことをマクラに爆笑を誘って、「今日のお話の落語は東西で演じられる噺が多いのですが、今日の噺は上方だけの噺で、しかも米朝師匠と私しか演(や)りません。米朝師匠がお亡くなりになったので・・・」と、「上方では私だけ、日本では私だけ・・・。」、ここらで、感の良い当席のお客様から「クスクス」と笑いが、そして、「世界で私だけ」で、大爆笑が巻き起こる。
「ひとつだけ良い処があります。短い!」と、始まった本題は『堺飛脚』の一席。
もちろん、当席でも初めて演じられる噺であります。
噺の舞台は、船場と堺の大浜。手紙を届けることになり、深夜のその道中での出来事。
途中の飛田(とびた)、千日前を紹介しながら、噺は進展。当然、昔の深夜ですから、遭遇する登場人物?も、妖怪オンパレード。夜明けの堺の大浜でサゲとなります。
全然、恐くない妖怪を漫画チックにご自身の任(ニン)を最大限利用され客席を大爆笑に誘った米紫師匠でありました。
この噺、『これでも古いか』と言う噺ですが、これではサゲがチョンバレ。米朝師匠が今の演題に変え演じられています。

 三つ目の笑福亭伝統の豪放磊落ではなくどこか品を感じる自称・上方落語界の皇太子殿下もすっかりベテランの貫禄。それもそのはず、キャリアは当席と同じ三十六年。『吉原雀』の出囃子で登場。「えー、只今は、もっともお馴染みの『堺飛脚』でございまして・・・」と、笑いを誘って、私の趣味の話題としてサラリーマン川柳を紹介して、お茶も趣味でと始まった演題は東京ではお馴染みですが上方では珍しい『茶の湯』の一席。場所を大阪の桃谷として発端からの上方風の演出に客席からは狙いすましたような笑いが随所に起こる。
さらりともっちゃりのミックス口調で、スッキリとまとまった好演。ワチャワチャと大いに盛り上がった二十五分。サゲまで後、五分といった半ばでお後の小枝師匠と交代となりました。
この噺の原話は江戸末期の文化三年の笑話本『江戸嬉笑』の一編「茶菓子」。
元々は東京ネタであったものを上方で手がけられたのは先代の桂歌之助師匠。
平成5年1月の「第137回ABC土曜名人会」の音源が残っていますし、当席でも演じられておられます。
この噺で登場する茶の湯の材料は青黄な粉(青大豆をいって粉末にしたもの)。
これをいくら混ぜても泡がたたないので、椋(むく)の皮で泡をたてる。こんなお茶が旨いわけがない。この種子は黒く固いので羽子(はご)の球、皮は石鹸の代用だったそうです。

中トリは久々の出演となります桂小枝師匠。
昭和49年に先代・五代目桂文枝師匠の小文枝時代に入門し、桂枝織(しおり)。小文枝師匠ならではの可愛い名前。
7年後の昭和56年に周りの薦めもあって小枝と改名し、徐々にマスコミで活躍し、大ブレークとなり、現在の大活躍は皆様ご存知の通り。
『小枝ブルース』の出囃子で客席全体から巻き起こる拍手に迎えられて高座へ登場。
「ポン、えーとーーーと、とにかく暑いので汗かかんようにそーっと演(や)ります」との一言で客席の雰囲気は一気に「小枝の世界」へ突入。
さらに、「高座が暑いのですぐ、羽織を脱ぎます」と、噺家の羽織の脱ぎ方を紹介。「春團治師匠はカッコいい。私はこうして脱ぎます」と、独特の脱ぎ方で客席を大爆笑に巻き込んで、さらに、「年中、冬やったらええのに、なぜか、カイロが売れる。けど、あの撮影は冬で寒いでっせ」と脱線。さらに夏はいや。蚊がおる。子供を夏休みにプール連れていかなあかん。と、爆笑マクラが続き、始まった本題は、五代目文枝師匠も十八番だった『次の御用日』の一席。
その噺を雰囲気を壊さないように「ああっーー」との独特の声が出るかでこの噺の出来が変わってくると随所に師匠ならではの工夫が入って、発端からサゲまで全編、爆笑の連続の再演を大いに期待された二十五分でありました。
この噺、別名を『しゃっくり裁判』とありますが、「ああっーー」が、誇張されたしゃっくりなのでしょう。

 中入りカブリは桂あやめ師匠。
ご自身の芸名にちなんだ出囃子、『菖蒲浴衣』に乗って高座へ登場すると客席は大盛り上がり。
やはり、地元出身が強いのか、この師匠の出はいつもこんなムード。
語り出しから「暑いーーー。出る人がみんな言ってますが、特に高座を照らすライトは早くLEDにならへんかなぁ」と、いつもながらエンジン全開のあやめ師匠であるが、師匠もお亡くなりになられたので「怒られることもなくなった」と思わずしんみり。
昭和57年入門、キャリア33年(上方落語界も層が厚くなった)なので、上から勘定した方が速い位置になられたので、仕方のないところ。
平成6年に、本人たっての希望で、まことに艶やかな名跡・桂あやめの三代目を襲名。このあやめという名前は初代が四代目文枝師匠(阿や免)、二代目が五代目文枝師匠と歴代文枝の出世名前。当席では同年7月の第195回公演で恋雅亭同人会として初めて手がけた襲名披露公演で地元のお披露目となりました。
その時の出演者と演題は、『色事根問』桂坊枝、『四人癖』桂枝女太、『ほのぼの噺』桂文福、『船弁慶』桂文枝、中入、『披露口上』あやめ、文枝、ブラック、文福、小枝(司会)、『反対車』快楽亭ブラック、『OH!舞ガール』桂 あやめ(花枝改め)。
以後、当席常連として、女流創作の名手として数多くの名作を演じて頂いています。
今回も自作の『妙齢女子の微妙なところ』の高座は全開。客席から波打つような笑いの連続の二十五分の秀作でありました。

 トリは米朝一門の大御所、桂千朝師匠。『本調子鞨鼓』の名調子で高座へ登場すると、大きな拍手と客席から喝采が巻き起こる。子供時代の思い出のマクラがスタート。千朝ワールド炸裂。「これ、おいたをしてはダメですよ。お坊ちゃま・・・。」と、言われていた子と遊んでいました(客席、大爆笑)。師匠独特の間で巻き起こる笑いは倍増、三倍増、四倍増と増幅。そして、「えー、動物の世界も・・・賢い犬もおりまして、ビックリしたのが、お目の悪い方が連れてはるゴールデンレトリバーちゅう犬、この間、米朝一門会の客席におりますねん。この犬が、感心しましたわ。二時間でっせ。落語会を「ワン」とも吠えずにジッーと噺を聞いてまんねん。もっとも笑いまへんけど、偉い犬もおるもんでっせ。」と、動物のマクラで笑いを誘って始まった本題は、師匠直伝の『鴻池の犬』。
発端の「常吉、ちょっと起きとぉくれ。いやいや、まだ起きる時間じゃありゃせんが、年取ると夜聡(ざと)ぉなってどもならん・・・」から千朝ワールドが始まる。米朝師匠にキッチリ基本から口伝されている演題だけに要所要所にキッチリ笑いが巻き起こる。半時間強の名演でありました。
なお、ここで出てくる「鴻池家」は明治時代に「鴻池銀行」を設立。この銀行は昭和初期には、「三和銀行」。そして、「UFJ銀行」、「東京三菱UFJ銀行」と変貌を遂げている。