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       第270回 公演の記録           吉村 高也
       公演日時: 平成13年 2月10日(土) 午後6時30分開演  

                 
出演者               演目
   桂   文 華黄金の大黒
   桂   蝶 六ぜんざい公社
   桂   文 我さじ加減
   桂   春團治野崎詣り
    
中入   
   はな  寛 太   漫才

      いま  寛 大
主任 笑福亭 松 枝高津の富

       

平成十二年、二十一世紀のスタートを飾った第二六九回新春初席を大入でお開きとした『恋雅亭』。その二月公演は二月十日に開催されました。

  その公演の前売券の販売も二月になって好調に推移。三連休の初日にあたる当日は、元町本通りの人通りも多い。いつもの様にお客様の出足は早く、四時半には、もう列が出来る。先月と同様、どんどん長くなった、列が元町本通に達し、お客様が待ち焦がれる中、五時半に予定通り開場。

お客様をお迎えする一番太鼓が景気よく鳴り、吸い込まれるように会場一杯に並べられた席が埋まっていく。出来るだけ多くのお客様に座って頂こうと、木戸口の長椅子まで並べたが、その後も来席されるお客様が後をたたず、「申し訳ありません。立ち見ですが、よろしいですか?」とお断りしたうえでご入場願ってのご入場となった。

  大入り公演のトップは、文枝一門の桂文華師。昭和六十三年入門(キャリア十四年)で一門の元気印。各地の落語会でも大活躍で当席常連である。

「えー、ただ今より開演でございまして、まず最初に出てまいりましたのが、桂文華と申しまして、別名、上方落語界の『妖怪人間ベロ』と申します。」と自己紹介し、さっそく長屋の話題から『黄金の大黒』が始まる。

楽屋入りした文華師と雑談。

小 生「ありがとうございます。」

文華師「こちらこそ、いつも、よう入ってまんなぁ。ここは、緊張しますわ。今日もこれ

かこれと思って来たんでっせ。けど、出てますわ。ネタの取り合いでんなぁ。ま

ぁトップはこんなもんでっけど、競争やからね。」と話しが弾む。

  過去、文華師が当席で演じた噺は、次の通り。初出演は212回公演の『二人癖』。続いて222回公演『ふぐ鍋』。第2回ゴーフルリッツ公演の『ちりとてちん』。243回公演『みかん屋』。5回目の出演で、その悩んで演じることになったのは『黄金の大黒』。

この噺は平成十一年四月の第248回の林家染語楼師匠以来、22回ぶり。

久々に演じられる噺である。トップらしく元気一杯の高座は約十五分。場内からは要所、要所で笑いが起こり、サゲ直近で、お次と交代となる。

  二つ目は、春團治一門(故春蝶門下)から桂蝶六師。昭和五十七年入門で、当席へは今回で三度目の出演となる。。過去は、210回公演の『あみだ池』。248回公演の『道具屋』である。今回も爆笑高座を期待の中、高座へ登場。マクラは「えー、世の中、不景気でんなぁ。今年、余興へ呼ばれなして、そこで司会者がね『えー、一昨年はオール阪神・巨人師匠をお呼びしました。昨年は今いくよ・くるよ師匠でした。今年は・・・・これです。どうぞ。』でっせ。やれまへんで。しょうないけど。」と笑いを誘って、『ぜんざい公社』の一席。

 この噺、当席では前出の『黄金の大黒』より、さらに珍しく蝶六師の師匠の故桂春蝶師匠が昭和六十三年十二月の第129回で演じられて以来、実に十三年ぶりの口演となる。

「えー!?」と思わせる位、演じられていない噺ではないだろうか。

落語にも、「はやりすたり」があるだろうか? よく演じられる噺には次の4つの特徴があるかと考える。

     @ 師匠の十八番で、多くの弟子が受け継いで演じている。

      A 売れっ子の噺家の十八番で数多く演じられている。

      B その時期の世の中の時流に乗っている。

      C  とにかく、受ける(笑いが多い)。

  この『ぜんざい公社』は、昭和四十年代から五十年代前半に数多く演じられた噺であり、故春蝶師匠を中心に数多くの師匠の名演が残っている。

『改良善哉』として作られたこの噺、『ぜんざい公社』として数多くの上方の演じ手を経て、現在、東京の寄席でもよく演じられる噺となっている。

その噺を蝶六師は師匠直伝らしく、随所に師匠(桂春蝶師匠)を彷彿とさせるところがある爆笑噺としてキッチリと演じられた。

 その噺を演じられていた、ちょうどその時、楽屋には春蝶師匠の師匠の三代目師匠(春團治)がおられた。

 春團治師匠「あーちゃん、春蝶が死んで何年になるかなぁ」

 あーちゃん「・・・・・・。」 楽屋の連中も無言。 

そして、・・・・話題は変わった。

  春蝶師匠直伝を思わせる蝶六師の『ぜんざい公社』であった。

  三つ目は、今、年間落語上演回数がもっとも多いのではないかと思われる四代目桂文我師匠(故枝雀一門)。上方はもちろん、東京の「文我落語百席」を初め全国に及ぶ独演会や子供寄席での活躍はご存知の通り。
文我師匠と出番前に雑談した。

小 生「ありがとうございます。久しぶりで、忙しそうでなりよりです。」

文我師「おおきに。また、出して下さいよ。ここは、昔から、よう出してもろてるから。」

小 生「雀司のころから。楠本さんに、よう可愛がってもろてはったから」

文我師「そうですわ、『御祝儀』として入門して1年ちょっとで出してもろてましたから。

特別待遇ですわ。その楠本さんも亡くなりはって、だいぶなりますわなぁ。」

小 生「もう、八年。早いですなぁ。ところで、師匠、今日は何を?・・『高宮川天狗の酒

盛り』『ほうじの茶』『さじ加減』どれでも、初演でっせ。」

文我師「さよか、けど『さじ加減』なんか長いでっせ。30分以上かかりまっさかい。よ

ろしいんか?」

小 生「前の時間を見て決めはったら。」

  雑談での文我師匠の出番を調べてみた。

初出演は、第32回公演(昭和55年11月)での『道具屋』。入門後、わずか、1年半での高座である。続いて、第46回公演の『延陽伯』。第84回『子ほめ』。第94回『鳥屋坊主』。第126回『大安売り』。第143回公演の『時うどん』。第150回『ふぐ鍋』。

第181回『皿屋敷』、と雀司時代の口演。そして、文我襲名後は、第217回『井戸の茶碗』。第237回『三十石』。第252回『後家殺し』。そして、今回の口演となったのである。

  その文我師匠、先代同様『せり』の出囃子で登場。まず、小噺を一つ。これが、またしゃれており、『雪隠(せんち)の競争』であった。東京では、この噺は『開帳』と呼ばれ寄席でよく演じられている。それを、トントンと五分で演じ、本題の『さじ加減』が始まる。

勿論、当席では初演題である。舞台もお茶屋、長屋、奉行所と変わり、登場人物も多岐にわたり非常に難しい噺であるがテンポの良い口演で飽きさせることのない35分の高座であった。

  そして、中トリは三代目桂春團治師匠。いつもながら、あーちゃん同伴で楽屋入り。楽屋の雰囲気もすこぶる明るい。

文我師匠の噺の途中で準備万端。袖まで行くが「まだ、十分あるらしいわ」と笑いながら楽屋へ戻ってこられ、また雑談。そして、再び袖へ。サゲと同時に『野崎』の出囃子が鳴る。いつもながら手ぬぐいに扇子で「人」という字を三つ書き、それを飲む仕草。そして、高座へ登場し、一礼。座布団へ座っての一礼。客席は万雷の拍手で迎える。

「えー、大勢のお運びでありがとうございます。私(わたくし)、もう一席で中入、休憩でございまして、後には、漫才の寛太、寛大さん。そして、トリは松枝君がとってくれます。どうぞ、お後お楽しみに、ごゆっくりお楽しみ下さいませ。私のほうはあいも変わりません・・・。」と始まった演題は『野崎詣り』。「えー日本には三詣りと申しまして有名なお詣りが三つございます・・・。」と、いつもながらの名人芸。

 サゲの後も深々と一礼し、高座の袖でまた、一礼し、すっと引っ込む。登場してからサゲまでの華麗な高座であった。

  中入後は、上方漫才界から、はな寛太・いま寛大師匠の登場。テレビ・ラジオでの十五分を越える本格しゃべくり漫才が聴かれなくなった昨今、世間話風にテンポよく、演じられる磨きぬかれた上方漫才の至芸を生でと客席全体が期待の中、『とんこ節』の出囃子で高座へ登場した、寛・寛師匠。「えー、一杯でんなぁ。しかし、高いなぁ(立ち高座である為)。」「これが、高座や!」と掴みもバツグン。芸名の由来から、人命救助、そして、犯人説得術、との豪華三本立て。タップリの25分の高座であった。

 二月公演のトリは、笑福亭一門の重鎮、笑福亭松枝師匠。当席のトリも今回で五回目。

過去『一人酒盛』『たばこの火』『口入屋』『饅頭怖い』の名高座を覚えるえておられる皆様も多いことでしょう。さらに「当席への出演は別格」と、意気込みも人一倍で満を持しての登場です。

同人会へ電話があり、今回も過去一年間で演じられたネタを全て調べ、ネタを絞っての出演となった。

 出番前に松枝師匠と笑談。

松枝師「ネタ、送ってもろて、おおきに。ここは、大変やで、三つ位に絞って来ても最近

出てたり、前で演(や)ってたり。」

小 生「今日は何を?」

松枝師「『貧乏花見』をと、思とってんけど、前で『黄金の大黒』出たし、『天王寺詣り』

も狙っとてんけど、三代目『野崎』やろ。」

小 生「どうしまんのん?」

松枝師「へへ、まぁ、考えるわ」と自信ありげな会話であった。

  寛・寛師匠の高座が終り、トリの松枝師匠の登場となる。ここで、ちょっとハプニング。

高座当番が膝隠しを持ってセットしようとした時、壊れてしまったのである。直すために楽屋へ持って入った後の高座は師匠と見台のみ、すぐ直った膝隠しが持ち込まれたが場内は爆笑。

 しかし、ベテランの松枝師匠、ここは少しも慌てず「ちょい、ちょい、こんなこと、あるんです。」と一言。これで客席は松枝モードへ。

「えー、所は大阪の大川町、昔はここに宿屋さんが沢山ございました・・」と師匠直伝の『高津の富』が始まる。六代目の師匠の口演をベースに、そこに師匠自身の工夫をプラスした、松枝十八番と呼べる32分の名高座であった。(二月十日。大入叶)

     * 当席で演じられた 『高津の富』 **

270回を越え、延べ1700高座の当席で、『高津の富』が演じられたのは、たったの四度。四師匠のそれも全て、各公演のトリでの口演である。

@昭和五十六年三月 第 37回故 六代目 笑福亭 松 鶴      演

A平成 三年 一月 第153回  三代目       小文枝(現 文枝)演

B平成 八年 一月 第209回      月亭   八 方       演

C平成十三年 二月 第270回      笑福亭 松 枝       演