第266回 公演の記録 吉村 高也 |
公演日時: 平成12年10月10日(火) 午後6時30分開演 出演者 演目 桂 宗 助 「鶴」 |
十月の第二六六回公演は、桂ざこば、立花家千橘、両師匠の顔合わせ。三連休が終わった十日に開催された。そのせいか、このメンバー。出足が芳しくない。今年五回目の大入りにはならず定刻の六時半に開演となる(原因不明。三連休の影響か?) トップは、一番に楽屋入り。前座の仕事であり、本人も得意とするお囃子では一番太鼓を。そして、二番太鼓は笛で参加し、その合間に楽屋で今日の演題を考えたおられた米朝一門の桂宗助師。『石段』の出囃子で登場。よく通る胴間声と、師匠譲りのキッチリとした語り口は、多くの辛口落語ファンにも認められており、当席へは二度目の出演となります。 ** 楽屋 よもやま噺 其の壱(米朝一門について) ** 今席は、米朝一門の三師が登場。ここでは、ちょっと時代をさかのぼって一門を紹介してみよう。 @
月亭可朝(昭和33年、林家染奴から米朝一門へ移り桂小米朝。昭和43年現名を襲名) A
故桂 米紫(昭和33年入門しけんじ。翌年、米紫となる) B
故桂 枝雀(昭和36年入門し小米。昭和48年現名を襲名) C
桂ざこば(昭和38年入門し朝丸。昭和63年現名を襲名) D
桂朝太郎(昭和40年入門。現在は奇術などで活躍) E
桂 米蔵(昭和42年入門。現在は山梨在住) F
桂歌之助(昭和42年入門し扇朝。昭和49年現名を襲名) G
桂 小米(昭和44年入門しすずめ。昭和49年現名を襲名) H
故桂米太郎(昭和45年入門。故人) I
米 輔(昭和45年入門)。 J 千 朝(昭和48年入門)。 J
吉 朝(昭和48年入門)。 L 米 八(昭和49年入門。現在は曲独楽で活躍) M
米 二(昭和51年入門)。 N 小米朝(昭和53年入門) N
勢 朝(昭和54年入門)。 P 米 平(昭和56年入門) Q
米 裕(昭和59年入門)。 R 米 左(昭和59年入門) R
団 朝(昭和62年入門)。 そして、今席出演の宗助(昭和63年入門)師と続くのである。 その宗助師、登場すると携帯電話のマクラ。それもそこそこに、さっそく本題へ入る。ここらが「落語会は全員で演じる芝居」と自分の出番をよくわきまえた米朝一門ならでは。そして、演題も前座噺の定番『鶴』。上方の前座噺は「旅ネタと根問(ねどい)物」と言われているが、この噺は後者。噺が二人の会話を中心に繰り広げられるので、噺の間(呼吸)と、目線や仕草を勉強するには、もってこいの噺であると言われている。 その根問物を、現在、最も米朝師匠に似ていると言われる宗助師が、師匠からキッチリ付けられ(伝授)た噺をそのまま演じるのであるから、まずかろうはずがない。その繰り(練習)尽くされた一言や仕草、目線で演じるお馴染みの落語に会場からは爆笑が起こる。 キッチリ、タップリ十七分の高座であった。 二つ目は、松喬一門の総領弟子で、若くして弟子(喬若師)を持つ、当席常連の笑福亭三喬師匠。その人なつっこい芸風と愛くるしい笑顔で演じられる噺の数々。初の独演会も大成功させた勢いそのままに、三喬流の上方古典落語は絶好調。 さらに、過去当席では、前出の宗助師と同様『道具屋』『三人旅』『看板のピン』『短命』『延陽伯』『花色木綿』と、出演順を考慮した演目での熱演には頭が下がる。今回もその底抜けに明るい高座に期待が集まる中、高座へ登場。場内からは笑い交じりの拍手が起こる。 高座へ登場しただけで「絵になる噺家」笑福亭三喬、本領発揮の瞬間である。先にも延べたが実に愛敬のある笑顔。噺家にとって大きな武器である。 「えー、三喬でございまして、十月十日にここに出してもらうのが夢でした。紋日ですやん。祭日にね。私も一人前の芸人になったなぁと思てね。ひょっとカレンダー見たら、今年から変わってまんねん(笑)」。「まあ、それはそうとして・・・・。最近はお客様のほうがおもろいでっせ。こないだも『昔は声を掛けたら乗り物なんかは、待ったり戻ってきてくれたもんですわ。』とは、旅の噺のマクラですわ。けど、『今は新幹線なんか待ったり、戻ったりしてくれまへん』言うたら、客席から『のぞみやひかりはあかんけど、こだまは戻ってくるで!』場内爆笑ですわ。いやになりまっせ」と爆笑マクラ。 そして、始まった本日の演題は『短命』。三喬師匠のこの噺は当席で三度目である。 @
平成 五年七月の第百八十三回(三十二歳の時) A
平成 九年十月の第二百三十回(三十六歳の時) B
平成十二年十月の第二百六六回(三十九歳の時) 以前三喬師匠に伺ったことがあった。「僕、この『短命』という噺、好きですねん。名前がちょっと縁起が悪いんで、東京では『長命』云(ゆ)うて演(や)ってはりますけど、面白い噺ですわ。目立たんと、すっと下りるにはええでっせ。もちろん、襲名披露なんかには縁起が悪いよって、出来まへんけど・・・。」「軽くて面白くて、引っ張ったり、ちじめたり、色々出来まっさかい。わたいの十八番にしたいんですわ。けど、お客さんが付いてきてくれんとね。どこでも出来まへんねん」。 そして、当席での口演となったのである(当然、聴いて頂けるお客様だと判断されたからであろう)。 自信溢れる高座とあって、客席の反応もすこぶる良い。師匠自身の工夫が随所に見られ、じわじわと笑いが増える。サゲ前ではついに爆笑となる、乗りに乗った二十五分の高座であった。 三つ目は米朝一門から桂米二師。一門の中核として、今年で二十四年目のキャリアを生かして各地の落語会で活躍中の師匠。上方落語の神髄を楽しみにされている客席ファンの拍手に迎えられて、高座へ登場(前出の三喬師匠とは、また別の意味での期待の拍手であり、ここらが当席のお客様のスゴイところである。 「えー、最近、物忘れがひどくなってきて・・・」とマクラが始まる。本日の演題は古典の香りが随所にただよう創作落語『忘れな草』。舞台は長屋、けいこ屋、そして、長屋と展開する。多くの登場人物を演じ分ける。さすがであった。 中トリは五郎一門の総領弟子、立花家千橘師匠。初代、二代目春團治から師匠の五郎師匠へと受け継がれた上方落語独特の、こってり、もっちゃりとした演出での演目に十八番物が多い師匠であるが、今回も汗びっしょりの熱演、爆笑高座に会場の期待が高まる。 登場するや「昔から、目の寄る処へ玉。類は類を呼ぶ。と申しまして・・・」とマクラを一切振らずに始まった演題は、上方落語の特徴である芝居噺の大物『質屋芝居』。 ** 楽屋 よもやま噺 其の弐 芝居噺について ** 昔は多くの芝居噺があったのだが、現在は多くは残っていない。芝居噺自体が芝居のパロディであり、その芝居(歌舞伎・浄瑠璃など)自体を知らないお客様が増えたため、芝居噺も演じられることが少なくなり滅んでしまったのである。 芝居噺は、二つに分類することが出来る。 A. 噺が進行していくうちに、登場人物が芝居仕立てになり、ハメモノが入って芝居の一部を真似して演じる
もの。この『質屋芝居』を初め、『蛸芝居』『小倉船』『足上り』『七段目』『蔵丁稚』など。 B. ひとつの芝居の舞台を、ハメモノ入りで身振りや声色でそのまま表現してみせるもので、いわば、テレビのなかった時代の舞台中継のようなものである。Aより演じる機会が少ないが『本能寺』『瓢箪場』『加賀見山』などがある。 ちなみに、当席では、Aの噺は全て演じられたことがあるが、Bの噺は演じられたことはない。 その中でも『仮名手本忠臣蔵』は、演じられる回数が多く、落語の噺として数多く残っている。 この『質屋芝居』は、『仮名手本忠臣蔵』三段目「足利館の場」のパロディ、噺の前半は高師直(こうのもろのう・実話では吉良上野介)が塩冶判官(えんやはんがん・実話では浅野内匠頭)をいびる場面。 後半は同じく三段目の通称「塀外・喧嘩場」と呼ばれる場面である。通常のハメモノは、演者のキッカケに合せて演奏(唄も含む)されるこの『質屋芝居』は芝居のセリフに合せてのハメモノも聞き処である。さらに、もう一つ、後半の部分での高座と楽屋(噺家が行う場合が多い)との掛け合いがある。 *
数多く聴いた高座の中で特に印象深かったのは、昭和五十五年の『第七回東西落語名人選』 中入カブリには、「笑福亭の皇太子」の愛称を持つ笑福亭仁勇師匠が、今回も師匠譲りの爆笑落語を引っさげ二年ぶりの登場。 本日の演題は『鉄拐』。仁勇師匠のこの噺も、前の三喬師匠と同様、当席で三度目である。 @ 平成 三年五月の第百五十七回(三十三歳の時) A 平成 八年八月の第二百十六回(三十六歳の時) B 平成十二年十月の第二百六六回(四十二歳の時) 元来、この噺は、上方では滅んでいた噺か?。小生の落語ライブラリーの中で、この噺を演じている東西の師匠連は、故三代目桂三木助、故二代目三遊亭円歌、当代立川談志、そして、笑福亭仁勇の四師匠である。仁勇師匠は誰から口伝されたのか? 今回それを聞くチャンスを逃した(その後、露の五郎師匠の同題の口演が手に入った)。 それはともかく、この噺、非常にスケールの大きな噺である。舞台は大阪、日本ではなく中国は上海。そして、鉄拐仙人、李白、陶淵明など歴史上の人物が登場する。 通常では四十分以上を要する、スケール大きな噺。仁勇師匠の十八番である。舞台は、上海・吉本グランド花月。トントンと演じられ、「鉄拐仙人、前半でございます」と高座を下りる。丁度、二十分の高座であった。面白い噺に仕上がっていたと思う。 そして、今回のトリ、米朝一門から桂ざこば師匠。現在、もっとも乗っておられる師匠で、熱狂的ファンを多く持つ師匠。今回も、超過密なスケジュールの中、「恋雅亭」ならと快諾を頂いての、登場の運びとなりました。その幅広い演題の中から何を演じていただけるのかと会場全体が期待する中、出囃子をタップリ聞かせて高座へ登場。 「えー、もう一席の処でございまして・・・」と挨拶の後、師匠の若かった頃の想い出噺。「千日劇場・三日連続遅刻!」「松之助師匠のキャバレー乱入!」「六代目松鶴・松之助師匠道路闊歩!」と爆笑マクラが・・。これが、実に面白い。 そして、始まった噺は『狸の化寺』。もちろん、師匠直伝の逸品である。 落語は聴く人が「頭の中にそのイメージを描いて楽しむ」と言われているが、この『狸の化寺』が面白いのは、どこにでも有るような農村、ちょっと不気味な古寺、荒くれ男の集団生活と今の観客に実体験はないだろうか、TVや映画を通じて見聞きして、頭にイメージが浮かぶからか?(小生はそうであった) 小生がこの噺を始めて聴いたのは、今から29年前の昭和四十六年十月三十日の『第四四回ABC上方落語を聞く会』。十七歳の時であった。 当時、受験勉強中?であったのだが、休憩と称して、当時流行りであった深夜放送の『ABCヤングリクエスト』のミッドナイト寄席の録音を採り、その晩(深夜)に四度聴いて、翌日、学校では眠かったのを覚えている。それ位、インパクトがあった噺であった。 『狸の化寺』の主人公は黒鍬の頭領、火の玉の竜五郎。米朝師匠演じる火の玉の竜五郎が理知的であるのに対して、ざこば師匠はご自身のイメージそのままに、やんちゃな竜五郎と感じる。 ここらが落語の面白いところで、演者自身は本来消えるべきはずなのだが、演者の演出と個性、そして、その会場と観客によって、大きく変化するのである。 しかし、基礎がしっかりしているざこば師匠。ツボ、ツボできっちり笑いをとった高座は二十五分。会場全体大満足の『狸の化寺』であった。 |