公演記録目次へ戻る


       第256回 公演の記録           吉村 高也
       公演日時: 平成11年12月10日(金) 午後6時30分開演  

                 
出演者               演目
       團 朝秘伝書
   林家  小 染尻餅
   笑福亭 仁 嬌くっしゃみ講釈
   桂   文 太火焔太鼓
    
中入   
   桂   文 福紀州
主任 笑福亭 仁 鶴不動坊

冬が駆け足でやってきた十一月公演は大入りで無事お開きになって、光の祭典ルミナリエを三日後に控えた十二月十日、第二五六回公演が開催された。一九九九年の最後を飾るにふさわしい上方落語界の大物、笑福亭仁鶴師に大トリを締めていただいての公演となりました。

 十日は金曜日と平日であるが、前売券の売れ行きは十二月になっても絶好調。その影響は当日まで続き、「券はありますか?」の電話もあいついだ。

 いつも通り、お客様の出足はすこぶる好調。開場定刻の五時三十分には、開場を待たれるお客様の列が入り口近くまで続いた。すぐさま、前列の方から席が埋まってゆき、開演の六時半には、先月、先々月と同じく満席となったが、その後も来場されるお客様が続いて、大入りとなった。

  トップは、人間国宝、桂米朝師匠直門の桂団朝師。師匠譲りの丹精な顔立ちと共に、落語は本格派で、当席へは二度目の出演。

  その団朝師が、英華嬢の弾く『石段』の出囃子に乗って高座へ。「えー、ありがとうございます。えー『もとまち寄席』でございまして、・・・」とスタートしたマクラは、TVショッピングの話。これが、面白く場内を爆笑の渦に巻き込んで続く。色々と紹介したの後、「縁日でも昔はこんな商売がありまして、・・・・・」と始まった落語は『秘伝書』の一席。

  この噺は新しく感じるが、実は初代春団治師匠も『地上げ』として演じられておられので、少なくとも昭和初年からあった噺である。「利上げと地上げ」のサゲが分からないからと、変えて演じられることが多い噺である。

  しかし、ひと月○○円で食える法、若い娘にキャーキャー言われる法、それに、釜無くして飯を炊く法など、答えは分かっているのだが、何度聴いても面白い。マクラを長くとって、本題はトントンと運んだ二十分の高座であった。

  「ちゃか、ちゃんりん・・・」の囃子に乗って、先代と同様、全身から溢れる笑顔で、やや恥ずかしそうにお馴染みの五代目林家小染師が高座へ登場。「えー久々の恋雅亭でございまして・・・」と始まる。

本日はいつものキャッチフレーズ「山田邦子の寝起きの顔」はなかった。

  小染師の本日の演題は、季節感ピッタリで林家のお家芸『尻餅』の一席(故三代目林家染丸、故四代目林家小染、現四代目林家染丸の各師匠の十八番。)

  戦前まではあったであろう、歳末の風物詩、賃搗き屋を呼びたいが呼べない、長屋暮らしの貧乏夫婦の見栄と、なんともいえない夫婦仲の良さを実に上手く表現した、上方落語の名作とも言えるこの噺を当代も見事に演じきった。(場内は笑いと拍手の連続であった。もちろん、偽餅つきの音も最高の出来。)

  小染師の愛敬タップリのコテコテ上方落語の後は、愛敬では負けていない笑福亭仁嬌師が三つ目に登場。マクラもそこそこに、師匠譲りの爆笑落語の『くっしゃみ講釈』の一席を最初からキッチリと演じる。くっしゃみのところがややおとなしかったせいか、その場面での拍手は少なかった。

  ここで囃子が『猩猩ばやし』になって、仁鶴師匠の出となるのだが、『さわぎ』の囃子で文太師匠の登場となった(仁鶴師匠は、大阪の自宅を愛車で四時に出られたのだが、大渋滞に巻き込まれて到着が遅れた。文太師匠が高座へ上がる寸前に到着)

  その文太師匠、幅広い芸風の文枝一門にあって、師匠に最も近いとされ入門から二十八年のキャリアを積み、師匠をはじめ先輩師匠連から伝授されたネタ数も豊富で、その中から何を演じられるのか楽しみな中、骨董品のマクラからスタート。そして、演じられた演題は『火焔太鼓』。

  皆様もよくご存知のように、落語には誰々の何々というような十八番物がある。

例えば、故八代目桂文楽師匠の『明烏』や故三代目春風亭柳好師匠の『野ざらし』などそして、『火焔太鼓』といえば、故五代目古今亭志ん生師匠である。その演者の印象が強くて、他の演者が、その噺を避ける場合が多い。そういう意味もあって、この噺は現在東京でもあまり演じ手がない。当席では、過去笑福亭鶴志師匠が、昭和五十八年七月の六十四回公演と平成二年十月の第百五十回公演の二度演じられたのみ。

  その噺に上方の文太師匠が挑戦したのである。ちょっと頼りない古道具屋の主人が巻き起こす爆笑噺に、場内は大満足の反応であった。

**落語・ミニ情報   古今亭志ん生師匠の『火焔太鼓』について

 志ん生といえば『火焔太鼓』。『火焔太鼓』といえば志ん生。と言われた程の十八番中の十八番。

多くの好演が残っている。解説や思い出は諸先輩にお任せするとして、現在発売されていたり、過去、発売されたレコードやテープは概ね次の10の音源を使用していまもし、皆様がお持ちのテープやレコードがあれば、聞き比べて下されば、どの音源が分かるはずです。

    放送年月          放送局・等

@52年 4月    ラジオ東京(現、TBS)。 エエ、志ん生でございまして、今晩は「火焔太鼓」・・

A54年 1月    ラジオ東京(現、TBS)。エエ、おめでたいこってございまして、本年も相変・・・

B56年 8月    中部日本放送。     エエ、落語は数がずいぶんあるんで・・・

C56年 9月  ニッポン放送志ん生を聴く。エエ、落語というものは、しゃれが固まったような・・・

D58年11月    NHKラジオ。     エエ、何しろこの、大変陽気がよくなって・・・

E59年 5月    NHKラジオ。     エエ、昔はこの、何月になると何屋が物を売りに来る・・・

F61年11月 NHK第29回・東京落語会。エエ、何でもこの、商売となると、やさしいものは・・

G63年 5月    志ん生宅。       エエ、商売というものは、何になっても難しいもんで・・・

H不明         不明  NO.1.。   エエ、大変今年は風邪がどうも多いそうで、このごろ・・・

I不明         不明  NO.2.。   エエ、昔は道具屋さんというものが、ずいぶん軒を・・・

  もっと詳しいことをお知りになりたい方は、志ん生ファンがよってこって作った、CD「ザ・ベリー・ベスト・オブ志ん生」の冊子の、データブック(日本音楽教育センター発行)を御参考下さい。

 さて、中入り後のカブリは、当席での出演はここ(カブリ)が指定席の文枝一門から桂文福師匠が登場。中トリの桂文太師匠とは芸風が大きく違う二人の師匠でこのあたりが、文枝一門の幅広いところであろう。

  高座での文福師匠もこのあたりは自覚されており、「えー、ただ今の文太師匠。うまいでんなぁ。兄さん(文太師匠)とは入門が近くて、文太、文福、文喬と一緒に修業しましてん(昭和四十七、八年当時。)」「文太は京都、文喬は明石、わたいは和歌山と出身は違うし、落語の出来も違いましてね。

師匠が三。人を前にして、『おい、文太。今後の独演会どこがええやろ』『師匠、やはり厚生年金会館なんかが、よろしいんでわ』『そうか、おい、文喬、ネタは何にしょうか』『師匠、十八番のたちきれ線香と蛸芝居では』『そうか。おい文福』『へぇー』『今日は、輪島、勝ったんか?』これには、場内大爆笑。

  そして、「相撲甚句」あり「河内音頭」ありの高座は続き、和歌山県人会の話題から、突然真面目?になって、歴代徳川将軍を紹介した後、『紀州』を演じる。トリにつなぐ重要な役割の高座を努め、客席へ愛想を振り撒いて、トリの仁鶴と交代となった。

 そして、1999年師走公演のトリは、大変お忙しい中、「当席なら」と笑福亭仁鶴師匠が平成十年五月以来の出演である。「どんなんかなぁ」「うれしかるかる」などのギャグを引っさげて、その早口で繰り出す爆笑落語から、一昔前ならどこにでもあった下町の雰囲気を持つ、落ち着いた落語へ芸風は変わっても、仁鶴落語は今も健在。

万雷の拍手で迎えられて登場した仁鶴師匠。開口一番「えー、世の中というものは、色々な事が起こります。まぁ足の裏、見てお釈迦さんと(笑)一緒になったとか、キリストさんと一緒になったとか、まあ、とんでもない奴で、昔やったら、あらちょっとおかしいで言うたら、しまいやけど、この頃はどうやら皆やさしなりまして、なんであんなこと言うんやろと、研究しだしまして(笑)・・・」「こないだも、私、タクシーに乗りましたら、運転手さんが、突然『お客さん、心臓は左ですか』(笑)て乗るなりこない言いまんねん。また変なんおるなぁ(笑)。こらまた心臓占いやなぁと思てね(笑)、こんなもん相手になったらいかん思てだまってたんですわ。ほんで、家に帰ってよう考えたら・・・あー信号は左ですか? と言うてはったん(笑)そう言うてはったんやな、どうやら・・・」と仁鶴の世界へ。

師匠の一言一言に会場は、どっと反応がある。ここらが、恋雅亭のお客様のすごいところである。

  よく、「お客さんが芸人を育てる」という言葉があるが、さながら「お客様がお客様を育てる」といったところか。もちろん、仁鶴師匠の話芸のすごさであることは言うまでもないが。

  そして、「昔は我々は遊芸稼ぎ人ともうしまして、・・・」と仁鶴十八番『不動坊』の一席。「利吉つぁん、いてなはるか」から、サゲの「へぇ、幽霊(遊芸)稼ぎ人でございます」までキッチリと、二十八分の熱演であった。追い出しの太鼓で帰路に着かれるお客様からは大満足の表情がうかがえた師走公演であった。       (十二月十日、叶大入り)