「笑いに恋して もとまち寄席物語」 (中) 平成15年8月 
◆春駒HOME◆恋雅亭TOP◆同人会目次

「笑いに恋して もとまち寄席物語」
                         神戸新聞の記事より
中.仕掛け (2003/08/07)
手間、金かけて客育て
 
神戸・元町商店街。「もとまち寄席恋雅亭」は、神戸本社の地階ホールで開かれる。

一九七五年ごろ、社長の下村光治は本社建て替え計画に際し、ホールの併設を考えていた。

文化的な催しで、地元商店街に活気を与えたい。「寄席はどうか」。下村に、六代目笑福亭松鶴と演芸プロモーターの楠本喬章を紹介した人物がいた。俳優の藤田まことである。

藤田を介して、下村に会った松鶴と楠本はこう注文を付けた。「落語のネタに賢い人間は出てきまへん。あれはあかん、これはあかん、とおっしゃるなら乗れませんわ」

じっくり話を聞いた下村は寄席興行を決めた。

楠本は松鶴や桂米朝ら大御所とともに、当時ラジオやテレビで人気を集めていた笑福亭仁鶴や桂枝雀らを呼んだ。

楠本はこう言った。「テレビで顔を売ったらええ。そして、実際に落語を聞いてもらって、そのよさを分かってもろたらええ」。二百五十人のホールはいつも満席。常連客の神戸市須磨区の有野寛(52)は「演者との距離が近く、表情が分かるのがいい」と語った。

ユニークな企画もあった。「ぜんざい公社」や「青菜」などのネタの後、客にネタ通りの食べ物を振る舞った。林家染丸が言った。「こうした企画には手間も金もかかる。けど次第に、落語をよく理解してくれる上客が育っていったように思います」

固定ファンは確実に増えていった。中には露の団六のように、落語家になる者も現れた。

楠本の仕掛けは多彩だった。関西で初めて、中学校などで「学校寄席」を開いた。東京から柳家小さんらを呼んで「東西落語名人選」を催した。企画を打つたびに、ファンはもちろん、落語家をも刺激し続けた。

恋雅亭二百回興行を目前にした九四年冬のこと。楠本が体調を崩した。「入院しても、目を開けたら落語の話。自分の命より落語のことで頭がいっぱい」。妻の良子(65)が振り返った。

五月、桂春駒が見舞いに訪れた。「とりあえず、休みなはれ。恋雅亭やったら安心して」

翌日、楠本は静かに息を引き取った。五十九年の生涯だった。(敬称略)