「笑いに恋して もとまち寄席物語」 (上) 平成15年8月 
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「笑いに恋して もとまち寄席物語」
                         神戸新聞の記事より
上.男惚れ (2003/08/06)
松鶴と演芸プロモーター
 
「先生はおやっさんと仲が良く、笑福亭一門では僕や(弟弟子の)小松はかわいがってもろたなあ。よう若手勉強会を手伝ってもらいましたわ」

大阪市内のテレビ局で、笑福亭鶴瓶が懐かしそうに話した。

おやっさんは六代目笑福亭松鶴。「先生」とは神戸を拠点に落語会を手掛けた演芸プロモーター楠本喬章である。

一九七一年。楠本は上方落語協会会長だった松鶴のもとを訪れ、直談判した。「神戸で寄席をやりたい。銭もうけやない。落語ファンを増やしたいんや」。まだ、関西に定席はなく、落語会は京都市民寄席(五七年開席)など限られていた。

翌年、JR兵庫駅近くに小さな寄席が産声を上げた。倉庫を改装し、地名の柳原から一字を取って「柳笑亭」と名付けられた。興行は月五日間。トリを飾ったのは松鶴のほか、桂米朝、春団治、小文枝(現文枝)ら。若手勉強会では鶴瓶や桂文福らが高座に上がった。

楠本は落語家たちに「くっさん」の愛称で親しまれた。林家染丸は「もうかるはずないのに、終われば、どこかに飲みに連れてってくれた」

桂春蝶が不思議がった。「くっさんは、何で生活しとったんやろう」

楠本喬章は和歌山県の生まれ。神戸の証券会社に勤めたが雑誌記者に転じ、その後、芸能プロ社員となった。周囲に「松鶴に出会い、上方落語再興に力を注ぐ姿に男惚れした」と話していた。

演芸プロダクションを神戸に設立。楠本は落語のすそ野を広げることに腐心した。そのために、若手を舞台に引っ張り上げた。七六年の笑民寄席では、明石家さんまらが登場する「600分マラソン」を企画した。「十時間興行で、最後まで残った百人のお客に一年間の無料券を配った。当然、赤字。でも、楠本さんはとても喜んでいた」。会場の神戸・東灘文化センターの初代館長、徳永覚(58)が言った。

楠本の夢―。「道行く人を呼び込む『小屋』を目抜き通りに作りたい」

七八年、神戸・元町に拠点を設けた。寄席「恋雅亭」。 夢に見た目抜き通りの小屋であった。(敬称略)

「もとまち寄席恋雅亭」が八月九日、興行三百回を迎える。関西では珍しい地域寄席。その人模様をたどる。